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014

血のつながり 山口県柱島へ

 

この火曜日、思い立って山口県へ行ってきました。

幕末の志士、赤禰武人(あかねたけと)に思いを馳せる旅。

自分のルーツにも繋がる旅。

 

赤禰が育ち最後の時間を過ごした柱島を目指して。

 

赤禰武人という幕末の志士をご存知の方は

相当な歴史好きかと思います。

 

吉田松陰の松下村塾に学び、

高杉晋作と共に奇兵隊の創設に関わり、

第3代奇兵隊総督を勤めた人物です。

(初代は高杉晋作、4代目は山縣有朋)

 

高杉晋作の下関挙兵に反対して藩庁政府との和平論を

唱えたが容れられず長州藩を脱した。

上京しようとして幕吏に捕らえられたが、

長州藩討幕派の説得のために釈放され帰郷。

 

赤禰は藩内の融和を図るが、当時の藩政を主導していた

俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が、

同志にスパイ容疑をかけられ、

不忠不義の至りと断罪され処刑されます。

 

処刑後、遺骸から腸を引き摺り出し鳥の餌食にされ、

遺骸そのものは通行人に踏みつけさせるよう埋められ、

首は三日間河原に晒されたそうです。

 

最後に残した辞世の句

「真は誠に偽に似、偽は真に似たり」

 

自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、

長州のためを思っての事。

いつか真実がわかるだろうという無念の句です。

 

前置きが長くなりましたが、

赤禰武人は私の祖母のおじにあたり、

私にも彼と同じ血が流れています。

 

祖母からいつも武人の話を聞いていて、

29才という若さで非業の死を遂げた武人が

どんなビジョンを描き、どんな景色を見ていたのか。

 

いつか武人の墓参りをしたい。

祖母が他界してから、念願だった武人の墓参り。

それを果たすべく、

武人の生まれ育った柱島へ行ってきました。

 

柱島に入る前に、赤禰武人が学んだ

吉田松陰の私塾、松下村塾を訪れました。

 

思えば、高校の修学旅行で立ち寄って以来。

当時は歴史にあまり興味がなく、

とっても退屈だったのを覚えています(笑)

松下村塾は本当に小さく質素な佇まいで、

ここから現代日本のルーツが始まったのかと

思うと胸が熱くなる。

 

明治維新で重要な働きをする多くの若者たちに

思想的影響を与えた吉田松陰は、

幕末のインフルエンサーと言ったところか。

 

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、

錚々たる門下生ですね、後の総理大臣が2人もいる。

 

もちろん、ここに「裏切り者」赤禰武人の名前はありません。

 

歴史に「もしも」はありませんが、

武人がもう少しうまく立ち回っていたら、

ここに名を連ね、

明治政府の重役を担っていたかもしれない。

 

岩国で1泊し、いよいよ柱島へ。

 

柱島は岩国港から高速船で約1hほど、

瀬戸内海西部安芸灘に位置する

96世帯人口140人ほどの小さな島です。

 

岩国港から1日に2本高速船が運行しています。

朝7:40に出発して柱島へ向かいます。

乗船券ではなく、上陸券。

響きがなんだかとてもいい。

 

柱島は観光島ではなく、島民が生活する島。

飲食店はなく、小さな商店と自動販売機があるくらい。

 

上陸すると、さっそく赤禰武人の看板がお出迎え。

 

柱島の人々にとって、赤禰武人は身近な存在。

世間一般ではあまり認知されていませんが、

ここでは島民全員が武人のことを知っている。

 

感慨深い。

 

島内には、合わせて88柱もの神々が祀られていて、

これが柱島の名の由来となったといわれています。

 

レンタサイクルなどはもちろんないので、

島内の移動はひたすら徒歩になります。

 

港の周辺には人の姿がありましたが、

少し歩くと、人間よりも猫に遭遇する機会が多かった。

猫だけでなく、

カニやフナムシ、バッタやカマドウマと遭遇しながら、

ずんずん歩きます。

 

坂の多い島なので、大汗かきながら。

 

小さなビーチもあり、足をつけると冷たくて気持ちいい。

水着を持ってくればよかったと後悔!

 

岩国から持参したお弁当をここで食べて、

いよいよ武人のお墓へ向かいます。

港から坂道をあがったところに、

武人が静かに眠る西栄寺があります。

 

1838年、武人は柱島の医師の子として生まれ、

日本が転換期を迎える激動の時代に、

29年の濃い人生を駆け抜けました。

 

処刑される直前に潜伏していたのが、

生まれ育ったこの柱島でした。

 

武人にようやく会えました。

不思議な感覚でした。

 

夕方の船まで時間も十分にあるし、

観光mapにも載っていた金蔵山を登ってみることに。

 

小さな山だけど、けっこうハードな道のりでした。

暑さと体力のなさもあって過酷な登山(笑)

 

ほとんど登る人がいないようで、

道もシダが覆い茂ってました。

 

 

それでも、「あとすこしあとすこし」

と言い聞かせながら、

また自身の人生をリンクさせながら

ひたすら登ってゆきます。

 

登頂したものだけが出会える景色があるはず。

 

途中で引き返したくなっても諦めるな。

これまでの人生もそうしてきた!

 

山の中腹、1箇所だけ景色が開ける場所があり、

眼下を臨むと瀬戸内海が見える。

 

ますます期待が膨らむ。

山頂ではさらなる絶景が見えるはず。

 

あと500m。

あと100m、50m。

いよいよ山頂の展望台!

 

山を登る醍醐味、

ようやく味わえるカタルシスへの期待感!

 

 

 

…と思ったら

山頂付近は深い雑草に覆われ、道がなくなっていた。

山頂の展望台に足を踏み入れることはできなかった。

 

なぜよりによって山頂だけ!!

愕然とした、がっくりきた。

除草をする人手がなかったのだろう。

 

それなら一層、最初から登山道が閉ざされていたら、

この苦労はしなくてもよかったのに。

一瞬、そう思った。

 

苦労して登ったけど報われなかった。

その時、一緒に登った明日香さんがポツリと言った。

 

「赤禰武人の人生そのものだね」

 

鳥肌がたった。

その通りだ。

 

長州藩の倒幕に傾くイケイケの空気の中で

融和を測り平和的に解決しようとした武人の姿は、

日和見主義に映った。

 

「激するなかれ、いま四境に天下の大敵を控え、

藩内の議論を二分にして争うときではない。

挙国一致で外敵に当たるため、

恭順派と話し合う気持ちをもて」

 

現実を見る赤禰武人と、筋を通そうとする高杉は対立した。

 

次第に赤禰は「幕府の意見を垂れ流す間者」と目されていく。

 

長州の危機をいかに救うべきか……。

赤禰の想いは悲しいほどに空回りしていく。

西郷隆盛に幕府へのとりなしを懇願したのち、

上阪したものの幕吏に捕らえられてしまう。

 

(歴史チャンネル「赤根武人、傑物はなぜ処刑されたか」より)

 

坂本龍馬になり損ねた男。

 

長州と日本の未来を憂い、

実直に山を登ったがその山頂は閉ざされ、

武人はスパイと断罪され処刑された。

 

武人は山頂の景色を見ることができなかった。

 

「努力しても報われないこともある」

ごくごく当たり前の摂理を再確認した。

 

頑張ったら、ご褒美(見返り)があると

当然のように思っていた自分が恥ずかしい。

 

この山を登ったおかげで、

少しだけ武人を感じることができた。

もしも、最初から

山頂付近が閉ざされていることがわかっていたら、

ぼくはこの山を登ったろうか。

 

これまでの自分なら登らなかったと思う。

でも、武人は登った。

 

武人はもしかすると山頂の状況を

事前に察知していたかもしれない。

 

それでも、話せばきっとわかると信じ、

小さな可能性にかけて登ったのだろうか。

 

武人のビジョン、信念。その純度。

たとえ可能性が低くとも、

山頂を目指す行動、力強さ。

 

血の繋がりが教えてくれたこと。

赤禰武人に思いを馳せる旅は、

一生の宝物になった。

 

この島にはアートも観光資源もありませんが、

柱島の島民はみなさんとても親切で、

お会いした住人はみな、気さくに話しかけてくれた。

 

武人の話がきっかけで仲良くなったおじさんが、

「これも何かのご縁ですから」と

採れたばかりのサザエを包んでくれた。

 

赤禰武人が繋いでくれた、柱島との縁。

 

山頂が雲に霞んでいて見えなくても、

たとえ雑草で覆われていたとしても、

山に登ろう。

 

【最後に】

 

明治の終わりに、

赤禰武人の名誉を回復させようという運動が起こりました。

帝国議会で了承されるが、元部下である山縣有朋が

「下関砲撃事件で赤禰は敵前逃亡したゆえ、認めない」

と贈位を与えなかった。

(実際は勇敢に最前線で戦った記録が残っている)

とうとう名誉回復の話は頓挫したそうです。

 

それでも武人の復権を求める人が多く、

平成7年に下関の東行庵に赤禰武人の墓が建てられた。

最後まで贈位は叶いませんでしたが、

赤禰武人の復権は形を見ました。

 

赤禰武人の生涯をまとめた記事がいくつか

ありましたので、歴史好きや幕末好きの方はご覧ください。

 

この記事を読んでくださる方がいたら、この機会に

赤禰武人という人物のことを知っていただけたら、

とても嬉しいです。

 

 

それでは、また来週。